買い食い、トラウマ

つの間にかお金がなくなってゆくのを避けるため、これまで通勤途中で飲んでいた缶ジュースをやめることにしました。さらに昼食後になんとなく飲み続けるペットボトルもやめました。
 では、水分をどのように摂るかというと、水を飲むのです。朝起きてすぐコップなみなみ一杯の水を一息で胃へ流しこみ、内臓を目覚めさせます。水の飲みにくさから、今日いちにちの体調もわかるような気がします。職場では自然回帰生水器で濾過した水を飲みます。回帰水は体に良いことがわかっているので、スタバのタンブラーを常に満たして机の上に置いています。


て、ジュース類を飲まなくなると無駄な支出がなくなりました。すると、これまでの金銭感覚を大きく裏切るくらいの金額がお財布に残っています。これがあたかも、お金が増えたかのような錯覚を与えてくれます。いかに毎日ジュースを飲んでいたのかと改めて思い知らされますが、ジュースを飲んでいなければもっとお金が貯まっていたのに、などと悔やむことはありません。
 ジュースを断つほどお金を貯める必要があるのでしょうか? ボクはどちらかというと無計画にお金を遣ってしまう性格です。でもパチンコパチスロはやらないし、競馬競輪にも興味がなく、宝クジも誰かに便乗して買う程度、さらに10年間吸っていたタバコも3年前から禁煙中で、携帯電話は待ち受け専用、お金儲けの本は買わないから株にも手を出さず、CDやDVDはレンタルで済ませば、通勤定期が使える範囲内で出歩くといった、一方でまったくギャンブル性のない生活を送っていますので、ある意味堅実だとも言えます。だってダドとボクは同じ性格なんですから。


くギャンブルをしないダドは、たまにお酒を飲むとものすごく陽気になり、あっという間に高いびきで寝てしまいます。ボクの記憶の中の酔っぱらいは、ダドに限らずみんな楽しそうです。これを「お酒トラウマ」と名付けてみましょう。確かに、初めてお酒を飲んだ日から今まで、飲み会にはとても楽しい記憶しか残っていません。大学に入ってから初めてお酒を飲むケースが多いとすると、大抵はサークルとか同じクラスのメンバーで飲むこととなります。誰にもお酒トラウマが存在するのでは、と考えるのはこんなケースです。大学の学生寮では、一年生は飲み代を払わなくてもよいのですが、ひたすら飲んで飲ん飲ん飲飲んん飲んで飲みツブれます。二年生は、ツブれた一年をベッドに運びつつゲロの始末をし、かつ自ら飲みつつ上級生を楽しませます。三年生は自分が飲むのはともかく、下級生にひたすら飲ませツブします。四年生は勝手に飲んでるだけですが、三年生以下全員が全滅した時に限って後片付けをこっそりしてくれます。このようなヒエラルキー下で、ぐったりした一年生を泥酔した三年生がボコボコ殴り続けていたとすると、殴られていた一年生が三年になった時には、泥酔すると殴る人に変貌してしまうのです。そんなケースをたかだか五つくらい見てきた経験で言いますが、つまりお酒トラウマは伝染します。お酒がトラウマ伝達に一役買う理由を推測すると、アルコールで意識が混濁したところを殴られたりすると、意識のフィルターを通らずに身体が覚えてしまい、泥酔−殴打という短絡経路が発生します。お酒を飲むたびこの短絡を起こすと飲むと殴る暴れん坊が完成し、さらに悪いことに、たいてい殴られる人は殴る人より酒が弱く、殴られる頃には泥酔し意識不明です。そのような不幸な例を含め、お酒とどんな出会いを果たすかをここでは「お酒トラウマ」と定義してしまったわけです。
 そんなことを冷静に観察するくらいですから、ボクは泥酔したことがありません。酔って熟睡している間の記憶がないことはよくありますが、武勇伝を次の日に聞かされて青くなることもありませんし、飲み会の帰りにコンクリートの重しがついたバス停を100m近く引きずり回したことも全て覚えています。これがトラウマとならないとすれば、経験が意識的に記憶されて(?)いるためでしょう。経験が意識されれば因果関係を推定する余白が生じ、それを自分の行動へと反映できます。意識されない記憶はダイレクトに身体に書かれ、同様な条件に陥るとその度に書かれたものをそのまま読み上げてしまい、いつも同じ反応を同じように繰り返してしまうのです。ここでボクは、記憶は脳だけに蓄積されるわけではなく、身体のあちこちに分散されると考えています。


ムが体調を崩して二階で寝ています。ダドとボクは階下で話しています。外は雪が積もっています。玄関先でドサドサと音がしました。それをボクは、屋根から雪が落ちている音だと思いました。ダドが玄関へ飛び出し、また入ってきたかと思うと、マムが寝ている二階へ駆け上がって怒鳴りました。ボクが外に出てみると、雪の中に点々とダドの本が突き刺さっています。マムが二階からダドの本を投げ捨てていたのです。この時点で初めて、ダドとマムが夫婦喧嘩をしていたことをボクは知りました。しばらく二階でダドとマムの言い合いが続いた後、ダドは雪の庭に出て本を拾い集めていました。いまでは二階にダドの本は一冊もなく、ダドとマムは仲良く暮らしています。
 自分がとても大切にしていたものを、他人がないがしろにした場合、ボクはその他人が嫌いになります。許せません。ある時、いろいろな思いで集めた蔵書何千冊を一気に売ったり捨てたりしました。昨日のボクが大切にしていた本を、今日のボクがないがしろにしても、ボクはボクを嫌いになりません。あえていうなら、蔵書にこだわっていた過去のボクを嫌いになったとでも言えるでしょうか。蔵書がなくなったボクは、自分が思っていた以上に軽くなっていました。