インターネット環境

ットのコンテンツを作ることが、唐突にイヤになった。とても無駄な時間だと思うし、いったい誰に向かってやっているのか疑問だ。誰も見ていないんだったら無意味じゃないのか。ただネットを眺めていても、自分のコンテンツへのネタ集めをしているだけだとすると、ネットへ接続することさえ億劫になる。これが、いわゆるネットの二つ目の病である。
 では、ネットの一つ目の病とはなにか。それは、ネットにどっぷりハマり過ぎるというもので、そのハマる対象が2ちゃんねるだったり、アダルトサイトやセフレサイトや通販サイトだったり、はたまた同人誌的なものだったりする。症状としては、その対象サイトを眺めている時間外の、主に日常生活側へ支障をきたす。
 会社や学校へ定時に行けなくなったり、変なオフ会に参加してマワされて落ち込んだり、名前も知らないセフレから病気を伝染させられ病院通いをするはめになったり、通販のしすぎで自己破産したりなど、不具合が他人の目に留まるようになって初めて、どうやらネットから情報収集していたことが原因じゃないのかと、そのハマり具合が問い質されるのだ。これは裏を返すと、日常生活に支障がなければ、いかなるネットの情報は無害無味無臭無理無駄ムラということに他ならない。


て、二つ目のネットの病にかかってしまった。自分がネットに積極的に関わることに徒労を感じてしまったのだ。
 ネットに積極的に関わるとは、おおざっぱに、情報の発信側に立つということである。PCやネット接続の低価格化、汎用化や、ブログや日記サイトのユーザーインターフェースの充実により、情報発信のための閾値がかなり低くなった。またアクセス解析の充実は、間接的な反応*1を知ることも容易にしている。あちこちのサイトを眺めているうち、フツフツと沸き上がってくるこの欲求を止める制限なんて一切ないと知って始めた自己コンテンツ作りだが、なんの制約もないネットという世界で諄々と情報発信をし、毎日なにがしかのアクセスがあったとしても、やがて二つ目の病に罹ってしまうのだ。
 これが病である謂いは、それが必ず一時的なものであり、例外なく治癒するものだからである。ただ、放っておくと、治癒する前にネットから自己の痕跡を完全に抹消してしまうことがある。勢い余ってあちこちのいきつけ掲示板やチャットにさよならと書き込み、これまで作ったコンテンツを削除しサイトをたたみ、メアドを解除したあとで初めて、激しく自己嫌悪する。だがもう遅い。


ころで、ひと昔前の慣用句で「俺にはヤクザの知り合いと、スーパーハッカーがついている」というのがあった。掲示板やチャット上のフレーミングで用いられ、いわば殺し文句のように機能していた言いまわしだ。
 最初、この“知り合い”宣言を見たとき意味が全く分からなかった。「こいつはなぜ、唐突に自分の知り合いを紹介するのか」と思った。似たものに「明るい月夜の晩ばかりと思うなよ」があり、これはリアルで*2言われると、つい「そういえば、今日は午後から天気が崩れるらしいけど、傘を持ってくるの忘れちゃったなぁ。で、今晩の天気が何か?」と思った。でも言ってる方は、知り合いを自慢したいわけでも天気の会話で和やかになりたいわけでもなく、相手を脅すための言葉として使っているらしいから、びっくりしちゃうね。つまり“知り合い”宣言の裏に流れるストーリーとはこうだ。『知り合いのスーパーハッカーがアタックをかけて貴様のサイトを滅茶苦茶にし、メールボムで貴様のPCを使用不可にすると同時に、割り出した個人情報から自宅に知り合いのヤクザが乗り込み、実際に貴様をボコボコに殴って病院送りにするぞ』である。でもやっぱり、だからなんなんだという感を否めない。本当は何を意味しているのか。
 実は、ネット上で見ることができるコンテンツが、今後いっさい更新されないことが“死”なのである。仕事が忙しくて更新できないことがあったとしても、ネット上でそのサイトを眺めている限りは“死んでいる”と思い、久々に更新すると「奇跡の復活」と呼ばれ、「は〜い、まだ生きてま〜す」と本人は宣言する。それは“死”の概念が定着していることに他ならない。消去されず放置されたままのサイトが“死”であれば、放置されるべき状態に陥らせることが“殺し”だ。そこで登場するのがスーパーハッカーであり、ヤクザの知り合いなのだ。スーパーハッカーがPCを使用不可にしたり、ヤクザがボコ殴りにすることで、相手が物理的にコンテンツを更新できなくなり、“死”んでしまう。故に、“殺す”ことができる知り合いがいると宣言することは脅しの意味を持つのだ。


ンターネットとはなにか。インターネットとは公開されるべき*3デジタルアーカイブの全てである。そしてすべてのコンテンツは、時間の遅速、遠近の違いはあれ、過去のものである。強いてネット上の最新を考えてみると、「あ、これだ」と書き始める瞬間の、もやもやした状態のものを指すのではと思ったが、それはまだ情報ですらない。あるまとまりを整形してアップロードした瞬間が最新だろうか*4。いずれにしても、瞬時に情報が過去へ過去へと追いやられることを思えば、現実の速度ばかりが情報を腐らせるわけではなかろうと思う。


は、ネットの情報の価値は、「最新」ではなく何にあるのか。それは「真偽」「歴史性」「射程の長さ」の3つである。自分が発信する情報には、この3つが盛り込まれるべきなのだ。
 まず「真偽」であるが、これはすべての情報が真であるべきという意味ではない。情報は、発する側と受け取る側がいて初めて意味を持つが、それが真か偽かは情報に含まれず、発する側と受け取る側との関係より生成される流動的な価値なのだ。例えばAが「UFOは実在する」と書き、それを読んだBが「ばかかこいつは」と書き、さらにCが「僕はUFO信じているよ」と書いているのを、読んでいる私はどう考えるだろうか、という意思なのだ。
 次に「歴史性」とは、過去の何かを参照することである。そういう参照なしに、ただ今日ばかりを書いたものは日記と呼ぶ。日記はスタイルではなく形式なのだ。歴史性は、小さくは比較し整列することであり、大きくは起源を発見し将来への展望を見いだす意思なのだ。
 最後に「射程の長さ」であるが、これは……

*1:ヒット数やどこから飛んでくるか、どんな検索語に引っかったか

*2:実際に面と向かって

*3:まだ公開されていないものを含む

*4:最新の情報とは詰まるところ人間である。人間は情報を処理し伝達するインターフェースであり、情報を運ぶキャリアであり、情報を作り出すメディアだからだ