偶然のチカラ|植島啓司|集英社新書0412C|2009/07/02-07/07

偶然のチカラ (集英社新書 412C)|P222|自|5
「流れに逆らわず動く」と言った端から困難だ。なぜなら、今そこに見えているのが流れなのか、こだわりなのかがわかり難いから

問題提起
(P5)「未来が見えないとき、いったいどうしたらいいのか」
マリリン・V・サヴァン
(P17)モンティ・ホール問題
モンティ・ホール問題
(P17)テレビのバラエティ番組で、回答者は三つのドアのうちのひとつを選ぶことになる。その背後のどれかには当たりの車が隠されている。あなたがもしAのドアを指名したとする。Bのドアに正解の車が隠されているのを知っている番組の司会者は、不正解のCのドアを開ける。そして、あなたに「このままAのドアでいいですか、それとも、Bのドアに変えますか」と聞く。さて、あなたはAのドアのままでいるか、それともBのドアに変えるべきか(P118)テレビのバラエティ番組で、回答者は三つのドアのうちのひとつを選ぶ。その背後のどれかには当たりの車が隠されている。あなたがもしAのドアを選択したとする。番組の司会者は、どこに正解の車が隠されているか知っていて、不正解のCのドアを開ける。そして、あなたに「このままAのドアでいいですか、それとも、Bのドアに変えますか」と聞く。さて、あなたはAのドアのままでいるか、それともBのドアに変えるか、どちらが正しいかという問題

(P19)偶然をめぐっては、自分でも気がつかないカン違いがそこらじゅうに隠されている
(P20)いいことが続くと、そろそろ悪いことが起きそうな気がする
(P22)それとも、いっそ自分の身に起こったことを、すべて必然と考えてみることはできないだろうか
(P28)人は果たして選択が正しかったかどうかをけっして自分で確かめることはできない
(P29)謎めいた忠告。──「紐が切れないようにするために、まずそれを咬め」(ニーチェ善悪の彼岸』)
(P32)人間はだれしも自分が選んだことにとらわれて自由な判断ができなくなる

チャーリー・ディックス
(P32)英国の賭けの胴元。1.掛け金が大きい 2.賭けを申し出た当人が最初にコールする

(P50)鸚鵡は、よごれていないのに嘴を拭う(パスカル『パンセ』)
(P57)『幸』というのは幸いの原因が自分の中にない、偶然的な、他より与えられたにすぎない(安岡正篤安岡正篤一日一言』)
(P57)原因を自己の中に有する、即ち自分の苦心、自分の努力によってかち得たる幸いを『福』という(安岡正篤安岡正篤一日一言』)
(P61)あらゆる災厄は当人ではなくその周囲に難を及ぼす。そのほうがよほど怖ろしい。自分の行為の結果は必ずやもっとも大切に思う人の身に降りかかる
(P62)鎖を引っぱると、一番弱いつなぎ目から切れる。そのことは確実である。しかしどのつなぎ目が弱いかを、鎖が切れる前に知ることは困難である(G・ベイトソン『精神と偶然』)

エドヴィン修道士の論証
(P72)任意の数字を四つ並べてひとつの数をつくり、それを2乗する。すると、七つか八つの数字が並んだ数が得られるので、右端から二つ数字を消し、左端からひとつまたは二つ消して、新たに四つの数字が並んだ数を得る。この操作を4回くり返し、最後に得られた数を6で割った余りをくじの結果とするのである
アストラガラス
(P75)羊や山羊の足首からとれるほぼ六面体の骨。検索すると、アストラガルスが引ける場合が多いが、FFでの説明がなぜかこれに一番近い。それ以外は滋養強壮剤となる植物を指すことがある

(P77)キリスト教では、神様が人間たちにむかって、いわば、こういっているわけだ。「悲劇を、つまり天国と地獄を、地上で演じてはならない。天国と地獄は、わたしの仕事である」(L・ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)
(P81)偉大な人々も小さな人々も、同じ出来事を持ち、同じ不満を持ち、同じ欲望を持っている、が一は輪のふちのほうにいる、そうして他は輪の中心に近くいるから従ってこのほうは同じ運動においても動くことがすくない(パスカル『パンセ』)

占いの基本
(P83)自然の運動はある種のパターンに従うものであり、そのパターンは宇宙全体の構造を示すもので、同じパターンが他の場所での運動や活動にどのような影響を与えているか知ることができる
江原啓之
(P86)スピリチュアル・カウンセラー
細木数子
(P87)六星占術を発明
藤田小乙姫(こととめ)
(P89)霊感占い師。1994年、ハワイの高層マンションで射殺
田中佐和
(P89)新宗教団体、神霊の家の祭主(代表)
宜保愛子
(P89)霊能者
亀甲占い
(P91)亀の甲を五角形に切って、たがねで裏面に「町」を刻み込むことであった。それから「波々迦」の枝に火をつけて赤くおこるまで吹き続け、燃えている枝をまず「町」の縦の線に沿って、次に横の線に沿って押しあてる。そして顕著な結果がでて、特定の型はまったひびが「町」の主要な五点から四方へ走るまでこれを繰り返す。それから「さまし竹」でひびの上に水をふりかけ、最後にひびを見やすくするため、甲の表側を墨汁で黒く塗るのである

(P93)人間にとって永遠なもの、大切なものは、不透明なヴェールに、しばしばおおわれたままである。ヴェールのむこう側になにかがあることはわかってはいるのだが、その姿が、みえないのである。ヴェールが昼の光を反射しているのだ(L・ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)

パチョーリのバッラをめぐる問題
(P99)AとBとがバッラ(balla)という公平なゲームを戦っている。彼らは一方が六回勝つまでこのゲームを続けることに同意している。Aが五回勝ち、Bが三回勝ったところでゲームをやめたとする。掛け金はどのように分配すればよいだろうか
ディオファントスの墓碑
(P111)彼は一生の6分の1を少年として過ごし、その後12分の1を安楽に過ごしたのだった。さらにその後7分の1を経て結婚式を挙げ、結婚5年後にひとりの息子をもうけた。ところがこの愛しいが不幸な子どもは、父親の一生の半分を生きた後に、冷酷な運命の女神に連れ去られてしまった。ディオファントスは生涯の残りの4年間を悲しみを癒やしながら過ごし、その一生を閉じたのだった。ではこれらの数値から計算して、ディオファントスが何歳まで生きたかを求めなさい

(P125)実際に見ている人からすれば、それほど違いがないように見えるのだが、こちら側から見える景色と向こう側から見える景色とでは、しばしば天国と地獄のように極端に対照的なことがある
(P141)彼に振り向いてもらおうとするのをやめ、自分で自分に目を向ける(シェリー・アーゴフ『ラヴ・ビッチ』)
(P142)われわれの生活は半分は痴愚の中に、半分は知恵の中にある。人生を敬虔に、立派にしか描かない人は、その半分以上を後に置き忘れている(モンティーニュ『エセー(五)』)

E・ゴッフマン
(P145)

(P149)人を動かす秘訣は、この世に、ただひとつしかない。この事実に気づいている人は、はなはだ少ないように思われる。しかし、人を動かす秘訣は、まちがいなく、ひとつしかないのである。すなわち、みずから動きたくなる気持を起させること──これが、秘訣だ(D・カーネギー『人を動かす[新装版]』)
(P151)そう、人がもっとも望んでいるのは、「あなたはかけがえのない人ですよ」という一言なのである
(P152)人生は、もつれてしまった糸玉だ。意味はあるが、それを知るためには解きほぐして、きちんと伸ばすか、注意深く巻き直す必要がある。そのままでは答のない問題であり、中心を欠いた混乱でしかない(フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』)

十二支縁起
(P158)無明(むみょう)(ぎょう)(しき)名色(みょうしき)─六処─触─受─愛─取─有─(しょう)老死(ろうし)
マーチンゲール法
(P181)負ければ賭け金を倍々にしていく賭け方

(P183)ルーレットでは、出た目はまた出るし、出ない目はいつまで待っても出ない
(P193)自分を解きほぐしてくれるもの、眠り、赤ちゃんに戻してくれるもの、恍惚、柔軟性、ぐちゃぐちゃにしてくれるもの
(P197)西欧では、よく会話に『神』が入ってくるが、日本でそれに対応するものというと、『おかげさまで』という挨拶がある。『相手によって支えられている自分』『相手あっての自分』の表明で、単なる挨拶ではあっても、相手に対する一種の謝意がこめられている。自分ひとりで生きているのではない(三枝充悳(さいぐさみつよし)『縁起の思想』)

植木等
(P198)1960年代の無責任男。父は浄土真宗の住職

(P203)ホモ・サピエンスが、オルガスムスのみならずあらゆる領域に求める快楽は、満足の状態つまり欲望の達成状態、緊張の解消状態に帰着し得ない。快楽は、単なる快楽を越えて、強梗症(カタレプシー)あるいは癲癇(エピレプシィ)のぎりぎりのところまで達する全存在の発揚状態にも存在するのだ(エドガール・モラン『失われた範例』)
(P205)人生ではだれの身にも起こることを不幸と呼んではいけない。だれもが年をとり、病気になり、死んでいく。それは生き物としてはごく当たり前のことであり、不幸でもなんでもない。もしかしたら、それこそ持っているだけで安心できる最高の切り札なのかもしれない

解答要約
(P212)「自分で選択するべからず」「世の中にはどうにもならないこともある」「自分の身に起こったことをすべて必然と考える」「たかが確率、されど確率」「悪いことは連鎖する」「思いは全部どこかでつながっている」「いい流れには黙って従う」

(P216)ここで提案したいのは、いったん物事を勝ち負けで判断した後で、それらをすべてチャラにしたらどうかということ