しりとり

二人分ていどの幅の歩道を私は歩く。前方から別な人が歩いてくる。この二人はいつかすれ違うはずだから、あらかじめ私が右寄りに歩いておけば、前方の人もこちらから見て左寄りに歩いてすれ違おうとするはずだ。現にそのように動作することが多い。
 では、「私が右寄りに歩いた時に、前方の人もこちらから見て右に寄ってしまったとき」どうするか。これが今日の主題である。


「人は右、車は左」と私は小学校で学んだ。道路で車や人とすれ違うときはおおむね右寄りに回避すれば、経験上、前方から来る人も向かって左側に避けるから、なんの問題もなくすれ違うことができる。
 では、私が回避した側と同じ右側に前方の人も避けたとき、私はどう行動すべきか。私は自分の意図*1が相手に伝わらなかったことに嫌な気分を味わい、チッと舌打ちひとつして左側に避ける。すると左側を走ってきた、背後からの自転車のジャラジャラピーンキュキュキュキュ〜ゥという音にびっくり仰天してしまい、なぜか前方から来た人に殺意を覚える。
 こんどは、前方から来る相手の立場で考えてみる。すでに人と自転車が一緒にこちらへ向かってくることを知っている私は、より速く向かってくる自転車をやり過ごすために、まず前方の人が回避した同じ側に避け、それから改めて右寄りに人を避けるだろう。そのように、あたかも囚人推理パズルを解くかのごとく、前方から来る人が私と同じ側に回避した理由を推理できれば、私は自分の背後の動向を推測できたのではないだろうか。


はないだろうかって、人と人がすれ違うだけの特定の状況に、後ろから自転車が来る可能性を配慮するなんて、それなんだかルール違反じゃないか。なんだかあっさり前提条件を無視してるんじゃないか。まずお互いがすれ違う相対速度とかを必要条件に含めるべきじゃないのか、むしろそれ重要じゃないか。これは思考実験なのだから、初期条件の与え方をより具体的に、主観ではなく客観的に提示すべきじゃないか。
 しかしながら、現実は頭で考えるほどに単純化されない。性質が違うとはなっから除外していた要素が、状況の中に容易に現れるということが起こり得る。これはそういう思考実験なのだ。


の起こり得る現実での予測とは、次に何が起こるかを正解することではなく、状況下での選択肢の幅を推定することである。ゆえに、推定の幅には個人差(年齢、経験)があり、それは各人の経験やそう多くない経験をカバーする想像力に由来する。経験を新しい状況へはめこんでいき、どこにもあてはまらない経験は忘れ去るか、想像力を用いて整形しながら流用する。これが今日の結論である。
 かりに選択肢が一つしかなかったらどうだろう、当然それを選ぶしかない。いやいや、選ぶ以前に、一つしかない選択肢の前で私は立ち止まることはない。逆に選択肢が多すぎるときも、私は立ち止まらないだろう。一つだけの選択肢も、多すぎる選択肢は私には見えない。選択肢が複数だと了解されて初めて、私は状況の手前で立ち止まり、選択肢の幅をを瞬時に推定するのだ。


こで立ち止まるかの判断は、“慣れ”の度合いで柔軟に変わるが、なにかに慣れることのメリットとは、経験の蓄積があるレベルで収束し、定型的な作業や判断の方向性や動線が効率化し、それにより微細な不慮の事態への対応に十分な時間を割くことができる点にある。同じことをより短時間で行えることも重要だが、むしろ、不慮の事態と有慮の事態とをすばやく腑分けし対応できるまでの時間が短縮されるべきなのだ。だから、慣れることは退屈を意味しない。


しかに退屈を感じないにしても、初めて行うことは覚えることが多すぎるし、同じことを一年間行うと目新しいことがほとんどなくなるように思えるのは、まあ、これは実際に少なくなったかもしれなくて、やっぱり退屈という印象を拭えない。
 書いているうちに、この文章における目指すべき到達点からかなり離れてしまった感がある。どこらへんから軌道修正しようかと何度読み返しても、その離れ始めた箇所が見つからないので、もしかすると、冒頭の「人二人分ていどの幅の歩道を私は歩いている」ですでにあられもない方へ歩き出したんじゃないかと方向音痴は訝るのだ。ただし本来の方向音痴は、離れたことすら分からず、進む方向を訝ったりしない。


は訝り、迷った自分に気付く。そして方向音痴は地図を見る。「あらすじ:すれ違う歩行者→背後から自転車→経験と想像力に依存する選択肢の推定が予測である→推定するスキル→スキルにはフラグ→不審な物が発見できるかという命題とスキル」。なるほど、慣れの説明をスキルに言い換えれば、いつの間にか目的地の裏口にたどり着くようだ。地図はすばらしい。


ぜここに地図があるのか。なぜ地図で現在位置が判るのか。

*1:お互い歩行者として、右寄りに回避しあうのがルールじゃないか