追い越せ、一人だけ

後10時過ぎの日比谷駅には、帰宅する人が慌ただしく行き交う。そこでは、目的地を探したり飲み屋のはしごをする人をほとんど見かけない。己の身体に教え込ませた帰宅ルートを順次体現させ、頭では、今日起こった嫌な事や困った上司や読みかけの小説の続きを思い出したり、英語や資格の勉強に費やす。千代田線−日比谷線間の連絡通路では、帰宅する人が、電車の発着に合わせて満ち引きを繰り返す。左側歩行が原則とはいえ、互いにすれ違い追い越し追い越されるスピードはまちまち、肩やカバンがあちこちで軽く接触する。誰よりも先に乗りこみ席を確保したいため小走りになる。ただしこの時間の空席確保は「あわよくば」程度であり、それだけに要領の良いちゃっかりした自分を再確認する手段の一つとなる。
 ある日の午後10時台、私は千代田線を降り日比谷線に乗り替える。不思議と日比谷線からの対向者が少なく、いやむしろいない。いつもの通路がひろびろとする。私は前方の会社員について歩く。11段の階段を降り切ったところで、私の右後方を歩いていた、水色のポロシャツを着てかばんをたすきに掛けた小肥りの男が、その前を歩いていた、黒地に赤い花を散らしたワンピースの女性を追い越した。左側の背の高い会社員が、その前の白いハイヒールを追い越した。前方を歩いていた東スポが「とらや」の紙ぶくろを追い越し、灰色のピンストライプはでかリュックに追い越された。それだけだった。それだけ? 4人が自分のすぐ目前の他人を追い越し、そこで順位は安定してしまった。まだホームには電車が到着しないから慌てる必要はない。すぐ目の前にいる人だけが追い越された。


の革靴が私を追い越してすぐ目の前を歩いている。