ドラマフレーム

  1. イアローグ、4つ、7人が、まず前提され/追いかけ回され/飛び掛かられ/無視され/操るものである。

  2. 性が4人、女性が3人いる。この時、3組のヘテロカップル+一人の男をわたしは想定する。3組のカップルの盛衰はストーリーを延長するが物語とはならない。つまり、3組のカップルとは、その一人の男の形容詞となる。ここへ一人の女性を加えて一人の男とカップルを作る、あるいはそのあぶれた男を7人より排除する、という物語をよみとる。ただし、わたしは8人以上の特徴と性向を記憶できない。

  3. 人公とは誰か? 結果的に、主人公とは最初に登場し最後までのこっていた、(人間とは限らない)ある何かである。あるいは、主人公とはあるストーリーの中で動き回るものである。それはあらゆる動きのほとんどを(たいていは)目に見える形でわたしに呈示する技術を身につけた運動体でもある。物語を前へ進めるエンジンとして機能する、それの性能がよければ良いほど、わたしは気持ちよく遠くへ運ばれる。そのエンジンの代表性能は、速さや馬力よりも快適さ(自分の快楽に適合するか)が優先される。エンジンの性能をさらに上げるために、時に主人公は物語の途中で死ぬことさえある。

  4. たしはビデオを観ている。アクションあり恋愛ありとストーリーは二転三転し、その結末をわたしは予測することができない。その予測されうる結末とはしかし、いまだわたしが知らないだけで、実際は過去に決定している。そのビデオを購入した(借りた)時点ですでにストーリーの結末は決定し安定しているのだ。ビデオを観ているとき、わたしは同時にその結末を知ることができない。

  5. トーリーにそった画面の動きを追うとともに、観客としての(あるいは登場人物としての)わたしは違う物語をよんでいる。それはストーリーとパラレルに進行することもあるし、別な時間、別な場所の類似のストーリーと重複する場合もあるし、単なる映像の想起の場合もある。わたしはそのとき、どのような物語をよむことになるのか、その瞬間まで知ることはできない。かつまた、わたしはその物語を任意に選択することはできない。そのように物語をよんでいる時、わたしの頭はくもりつづけ混乱する。

  6. ングラスをかけたもの、視線をはずすもの、焦点が合わぬもの、白目だけのもの、背中を向けたものや背後にいるもの、頭の無いもの、流し目を使うもの、瞑想するもの、頬杖をついて眠るもの。つまり目がないもの。
     あるいは、無口なもの、あいづちだけをうつもの、歯を見せぬもの、音の内容を理解できぬもの、日本語でしゃべらぬもの、メールに返事を返さぬもの、他人のぬいぐるみ、行ったことがない場所、はじめて見た漢字、はじめて見た単語、はじめて知る言い回し、理解できない概念など。つまり発語せぬもの。
     それらはわたしにとって、単なる背景である。それらはわたしにぶつかろうが、殴り掛かろうが、単なるわたしの背景である。

  7. 実には常に何かが不足している。わたしは自分の人生の主人公であるはずなのに、脇役が不足している。観客と賞賛が不足している。あるいは、金や異性や化粧品や服や靴や知性や両親や先祖や子供や子孫や、なにか新しいものや必要なものや障害やここで語るものや捨てるものやじっと考える時間や、そして言葉や、あらゆる不足しているものが不足している。
     現実には常に何かが過剰だ。わたしの人生の中に、自分に必要ではない人が多すぎる。いじめっ子や会いたくない先輩や冷たい上司やものわかりの悪い教師や口うるさい両親や、あるいは情報やwebページや悲惨なニュースや正論やばかげた本や聞かないCDや、そして言葉や、あらゆる過剰なものが過剰だ。

  8. たしの身に起こることについて、わたしはある一貫した説明をおこなう。たとえば「あのときわたしが彼女とわかれた理由は、今の彼女と出会うためであった」というように。一貫性は過去形で語られ、またなぜそのようにわたしが説明したいのかは不明だ。あるいは、わたしが説明できない事態が発生したばあい、それが他人によってすでにどこかで説明されていて、それをわたしはいつか知りうるのだという確信を持つ。これもまた、なぜそのようにわたしが確信したいのかは不明だ。わたしの現在はすべて説明可能であり、わたしの疑問は必ず解決しうる、という解釈の一貫性をわたしは持ち続ける。あいかわらず、なぜそのようにわたしが一貫して解釈するのかが不明だ。

  9. きどき、わたしは自分の言動が、特定のストーリーにしたがっているかのように実感する。ストーリーの経過を想起し、想起した後に動作したことがその通りであったかのように感じる。想起と動作の、時間的順序がいっしゅん逆転する。そのストーリーがレールのように見える場合もあれば、世界一周として感じるときもある。