大人にはわからない日本文学史|高橋源一郎|岩波書店|2009/07/18-09/04
|P204|自|5
どんな複雑な事項でも、簡潔に短い語句で表現する訓練。比喩表現を突き詰めていった先の、どうしても詰めきれない空白的な現実の可能性。比喩によって、見えなかったものが見えるようになると同時に、見えていたものが不可視となる事態
(P7)「歴史」というものは、鑑賞するために壁にかけられた絵ではありません。なんというか、それを使って、誰も考えたことのないヘンテコなものを作りだせるオモチャみたいなものではないでしょうか。いや、そうであるべきなのです
(P14)書いた作家がすでに存在しないということはよくあることですが、その時代に発表された作品、それを同時代に読んで、感動した、ショックを受けた、あるいは怒った、そういう読者たちも残らず一掃されて、すでにこの世には存在しない。作者も読者も、すでに世界から退場してしまった。そのことを考えると、わたしなんともいえぬ不思議な感慨を覚えるのです
(P19)その「輪郭」におおいに頼って、目の前に存在している「意味」を読みとろうとするのです。だとするなら、「意味」というものは、何かの内部にある秘密ではなく、単なる「輪郭」なのかもしれません
(P20)この映画を見ているような見方、それこそ、自然主義的リアリズムというものの本質ではないか
(P21)言い換えるなら、自然主義リアリズムで書かれた作品を読む時のように、少し離れて全体の輪郭を読むというやり方は、不可能になるのです。この小説を読んで、リズムがある、力がある、よくわからないのに引きつけられると思うのは、わたしたちがこの小説を、自然主義リアリズムの作品を読むようには読んでいないからではないでしょうか
(P26)「イズム」は観念の中に存在しますが、「リアル」は肉体の中に存在する
(P50)わたしの考えでは、詩人が改行するのは、その行のところでことばの角を曲がるからです。一つの行を書く、ある場所に到達する。その時、小説家はただ早く目的地に着くことだけを考えます。それに対して、詩人は角に来たら曲がりたくなる性質を持っています。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです
(P53)音は、あるいは、人間の五感は、通常のリアリズムの言語では再現することは不可能です。逆にいうなら、音、あるいは、五感は、通常のリアリズムの言語では再現することが不可能なものも再現することができるのかもしれません
- 綿矢りさ
- (P55)『You can keep it.』
(P61)近代文学もまた、あいまいなものに明確な輪郭を与えようとしてきました。その別名である「自然主義的リアリズム」というものが実のところ視覚的リアリズムであったように、目に見えないものを目に見えるように書くこと、これがリアリズムの根本であり、それを採用した日本の小説は、目には見えにくいもの、見えないものを、いかに明確な輪郭で描くかということに、すべての努力を傾注してきたのです
- 綿矢りさ
- (P68)『夢を与える』
- 赤木智弘
- (P77)『若者を見殺しにする国──私を戦争に向かわせるものは何か』
- 石川啄木
- (P84)「時代閉塞の現状」
- 穂村弘
- (P93)『短歌の友人』
- 石川啄木
- (P107)「
ROMAZI NIKKI 」 - 岡田利規
- (P115)『わたしの場所の複数』
- 川上未映子
- (P125)『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』「ちょっきん、なー」「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」
(P132)ほんとうは、わたしたちが、ふだん口にしていることばは、きわめて微妙で、あいまいで、わかりにくいものなのではないか。その事実を、書きことばである小説は、隠蔽してきたのではないか
- 前田司郎
- (P134)『グレート生活アドベンチャー』
(P155)その、隠されているものとは、要するに、個人、「私」であり、それ以上にかけがえのないものはない、その作者の「私」を探し出すこと、それが、同時に読者の「私」を救済する道にもつながる──これが国語教育と連動した近代文学の、最も重要な存在意義だったわけです
(P156)文学というものを、百年単位で変わるOSの上に、次々と新しいソフトが展開していくものだと考えるならば、次の百年で更新されるOSの底に、わたしたちをつき動かしている、もしかすると本質的には変化し得ない、人間の感情と認識とことばの関係を統御する、さらに根源的なOSの存在を感知するべきなのかもしれません
- 中沢新一
- (P156)『芸術人類学』
(P159)『恋空』
- 夏目漱石
- (P165)『道草』
- 田山花袋
- (P166)『蒲団』
- 一つの大きな問い
- (P169)なぜ「文学史」などというものが可能なのか
- エドワード・サイード
- (P170)『晩年のスタイル』
(P176)そこに存在する作家たち、それを読んできた読者たちは、過去のすべての作品に目を通したり、読んだりするわけでもないのに、まるで、すべてを知っているかの如くに振る舞います。それが、なにかの、いや、あることばの共同体に所属するということの意味なのかもしれません
- シェイクスピア的な円熟とは違う「晩年」
- (P180)イプセン、ベートーヴェン、リヒャルト・シュトラウス
- 志賀直哉
- (P182)『暗夜行路』
- 太宰治
- (P185)『津軽』
- 中原昌也
- (P193)『凶暴な放浪者』
- 耕治人
- (P189)『そうかもしれない』
(P200)彼には、「始まり」から「晩年」に至る自らの歴史を作り出す術はないのかもしれません。「始まり」や「成長」、そして「終わり」のない世界で歴史を作ることは、不可能なのです