こんな日本でよかったね 構造主義的日本論|内田樹|バジリコ|2008/08/15-09/07

こんな日本でよかったね─構造主義的日本論 (木星叢書)|P297|自|5
籍にしたブログを読んで、その引用をネットにあげる不毛というか、引用しすぎか
(P29)ある文章が論理的であるか非論理的であるかを判定するのは推論の働きではない。論理的な文章は「気持ちがよい」が、非論理的な文章は「気持ちが悪い」から、わかるのである

ワーディング
(P37)言葉づかい、言い回し。「……というワーディングをよしとする言語感覚の貧しさ」

(P48)母語言語運用能力というのは、端的に言えば、「次にどういう語が続くか(自分でも)わからないのだけれど、そのセンテンスが最終的にはある秩序のうちに収斂することについてはなぜか確信せられている」という心的過程を伴った言語活動のことである
(P84)共餐の儀礼において、最初の一杯の最初の一滴は、その場をゆききする地霊たち、外精霊たちに捧げるために頭上に掲げなければならないという「ホカヒ」の儀礼を私たちがいまだに忠実に守っているからなのである
(P88)「ある組織の凋落局面における少数者の債務」だけを主題にした『昭和残侠伝』が六〇年代にあれだけの圧倒的支持を獲得したのは、政治の本質が「滅びてゆくもの」の弔いのうちに存するということを、当時の政治少年たちが無意識なうちに看取していたからだと私(内田樹)は思う
(P95)意味とか価値とか正しさとか合理性とかいうことはブリコルールにとって副次的なことである。
目の前に「なまもの」があるときに、とりあえず「手が勝手に動いておろしてしまう」というのが機能主義者の骨法である
(P101)言論の自由というのは「言う自由」のことだけではない。「言われたことば」の適否を判定する権利を社会成員が「平等なしかたで」分かち合うことも「自由」のうちにはふくまれている
(P111)「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会のことではないのか
(P130)両親は私にさまざまな苦役に耐えることを要求するが、それはそれが私にできる唯一の労働だからなのである。
苦役に耐えること、他人がおしつける不快に耐えること、それが労働の始原的形態なのだ
(P136)差別されている人間は差別社会の構造を熟知しているが、差別する側の人間は差別社会がどう構造化されているかを知らない。
マルクス主義者や第三世界論者やフェミニストたちの知的な明晰性が運動の過程でどのように劣化していったのか、私(内田樹)は四〇年ほど前から注意深く見守ってきたが、その主因のひとつが、この「被迫害者は当該社会における『神の視点』を先取しうる」という仮説にある、というのが経験的に得られた教訓の一つである

拳拳服膺(けんけんふくよう)
(P143)両手で大切にささげ持つように常に心に抱いて決して忘れないこと。肝に銘ずる

(P148)レヴィナスの「未来は他者である」とデカルトの「最も穏健な意見に従って自分を導く」は、人間について語られた最も深遠な省察のことばのひとつである
(P151)本来の教育の目的は勉強すること自体が快楽であること、知識や技能を身に付けること自体が快楽であること、心身の潜在能力が開花すること自体が快楽であることを子どもたちに実感させることである

エクスキュース
(P158)弁解、説明、口実。「そういうエクスキュースを口走る管理職」

(P160)非妥協的な利害の対立の場面に「弾力」を導入することができるのは生身の身体だけである
(P171)「絶対的他者」とは、「私がその人のために/その人に代わって『すみません』と言う当の人」のことなのである。「光の孤独」のうちに幽閉されている同一者はそのような意味での他者を持たない
(P176)完全な成果主義社会では、システム崩壊を未然に防ぐ「匿名で行われ、報酬の期待できない行為」には誰も興味を示さない

ディセンシー
(P183)型。礼儀正しさ

(P191)私(内田樹)には「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が事実認知的であると同時に遂行的であり、むしろ遂行的であるところに政治的意図があるように思われる
(P194)グローバル資本主義とは、労働者が規格化・標準化されて、地球上どこでも同質の労働力が確保されることと、消費者が規格化・標準化されて、同一の商品にすべての消費者が欲望を抱くことを理想とするシステム
(P212)レヴィナス老師のたいせつな教えの中に「世界を一気に救おうとする考えは人間の人間性を損なう」というものがある
(P223)「この制度は、いかなる人類学的起源を有するものか、これまでどのような歴史的使命を果たしてきたのか、現状では、どのような点で制度疲労や機能不全を起こしているか、どのへんを補正すれば使い延ばせるか、どのあたりのタイミングで修理を断念して『新品』に乗り換えるか」というふうな機能主義的な問いの立て方をする
(P224)自動車やパソコンを買い換えるときには、「まだ使える」のか「もうダメ」かについて、けっこう真剣な計量的思考をされるはずの人々が、こと社会制度については、いきなり「廃絶」という革命主義的方針を好まれるのは、私(内田樹)には理解しがたいことの一つ
(P237)世界観も宗教も感受性も身体感覚も、まるで違う人のものを読んで、それにぶるぶるっと共振するものが自分の中に見出せたら、その震えは「人間にとってかなり汎通性の高いもの」
(P247)ある種の「病」に罹患することによって、生体メカニズムが好調になるということがある。だったらそれでいいじゃないか、というのが私(内田樹)のプラグマティズムである

プラグマティズム
(P247)実用主義道具主義、実際主義とも訳される。物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとする

(P252)(ちゃんと故障箇所を確認し、修理方法を明確にするという)判断を、自家用車については適用するが、社会システムについては適用しないのは、要するにこの社会システムは「自分のものじゃない」と思っているから
(P258)ほとんどの「愛国者」の方々の発言の大部分は(中略)「同国人でありながら、彼または彼女と思想信教イデオロギーを共有しない人間に対する罵倒」によって構成されている
(P281)「『……はもう終わった』が理非の判定に代わる時代はもう終わった」
(P284)男性編集者でも私(内田樹)が「たいへん優秀」と評価している方々は総じて「おばさん」体質である
(P296)構造主義的なものの見方というのは、私たちの日常的な現象のうち、類的水準にあるものと、民族誌的水準にあるものを識別する知的習慣のことである