「パンダ殺し」  板東雅好

い先ほど嬰児殺しのことを書き、多方面からいろんな批判をいただいたが、実は私は嬰児のことを書きたかったわけでも、社会風刺をしたかったわけでもない。パンダのことを書きたかったのだ。いや、正しくは白黒熊のことを書きたかったのだ。
 ただ、こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世のパンダ愛好家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は白黒熊を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、両手で持ち運べる重さのうちに、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、野生の白黒熊の危険を避け人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは白黒熊に食い荒らされた野良猫、野良犬、幼児などの死骸がころころしている。子白黒熊の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
黒熊殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私は白黒熊を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して人間14名ほどを殺し、ほどなく地元民に射殺された。そう、白黒熊の雄は肉食で気性が荒いのだ。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。あまり知られてはいないが、タヒチでは野生の白黒熊がわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きでもないと、もらってくれるところなんかない。避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 白黒熊は幸せさ、うちの白黒熊には愛情をもって接している。白黒熊もそれに応えてくれる、という人はいるのだろうか。だが私は、白黒熊が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし白黒熊が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、私を食いたいというだろう。そう言わせないために、仔牛を毎日一頭は与えている。
 手飼いの白黒熊に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子白黒熊が野生白黒熊となると、人間を害する。だから社会的責任として、育てられない子白黒熊は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子白黒熊を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子白黒熊を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親白黒熊にとっての「生」の経験の有無、子白黒熊にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。なにしろ私だけでなく、地元民の安全も確保しなければならない。
玩動物として白黒熊を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。白黒熊にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で笹を食むことだ。生き延びるために人を襲うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は白黒熊ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
は自分の育ててきた白黒熊の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子白黒熊殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(戯作家)