「嬰児殺し」  板東雅好

コパンダちゃん

んなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の人権活動家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。日本国憲法に反するといわれるかもしれない。それを承知で打ち明けるが、私は嬰児を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生まれ落ちるや否や、後産もそこそこにそこへ放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらで人目も少ない。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠、浮浪者などの死骸がころころしている。生後数時間も経たない嬰児の死骸が一つ二つ増えたとて、私の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
児殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私には夫が三人いる。みな20代前半だ。女の同居人もいたが、家に居つかず、若年性痴呆を発症して近所を徘徊し、やがていなくなった。三人の夫は、どれも赤ん坊の頃から私が育ててきた。当然、第二次性徴が現れれば私に挑みかかり、その結果私は子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。ましてや、人間の赤ん坊を引き取る余裕など、どこにあろうか。私はピルの服用を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。私の雌としての「生」とは、やりたい盛りの男と豊かなセックスをし、快楽を貪り尽し、そしてその愛の結晶を産むまでなのだ。その本質的な生が奪われた状態で、生きる価値などあろうか。
 夫は幸せで、うちの夫には愛情をもって接している。夫もそれに応えてくれる。だが私は、夫が私に甘える根元には、セックスできるからということがあると思う。欲望を満たすための手段だ。もし夫が自分も妊娠できたとすれば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいと願うだろう。私はそういうふうに三人の夫を育てた。
パイプカットを施したり、私がピルを服用したりすることは、私の個人的な都合でしかない。嬰児が物心ついた年齢になってしまうと、私の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない嬰児は、最初から生まないような手段を考える。誰も、これに異を唱えることはできない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの私の嬰児を殺しても同じことだ。私の子種を絶やすか、夫の子種を絶やすか、できた子を殺すかの差だ。私がピルを服用するほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、私にとっての本質的な「生」の経験の有無、嬰児にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
 獣としての己の欲望に従うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。私にとっての「生」とは、だれからも干渉されず、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、他人が私の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。だれも神ではない。私の「生」に関して、正しいか間違っているか指摘なぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
は己の欲望に反して、避妊手術を施す権利などない。生まれた嬰児を殺す権利もない。それでも、愛玩のために子供を育てたいならば、親としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の「生」の充実を選び、社会に対する責任として嬰児殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(戯作家)