ゴミ拾い概論

の時期、花見者による、目黒川沿いや緑道へのゴミ放置が目立つ。しかし、ゴミ放置はこの時期に限ったことではないので、ゴミが放置される頻度が上がったに過ぎない。毎日通勤をすると、昨日はあそこ、今日はここにゴミを発見して気分が悪くなる。「ここへゴミを捨てに来てるんか」と憤慨のあまり、花見者を見ると、頭の中でBB弾を一人あたまそれぞれ2,000発ずつ撃ちこんでいる。
 ところで、ゴミ放置に対し憤慨するだけではゴミは一向に減らないし、ここでの前提は、ゴミを放置する人と憤慨し続ける人とでもそれほど違いがないというところにある。『ゴミを放置する人』の概念的逆は『ゴミを放置しない人』ではないのだ。逆にしたところで、なんら新しい意味を見いだせない事項は、考えるだけ無駄なのである。


見者がゴミを放置することを阻止するためには、ゴミが放置される瞬間を目撃し、即座に現場を押さえない限り無理だ。看板などでゴミを持ち帰るよう呼びかける必要はあるだろうが、それがどれだけゴミ放置に対して有効なのかわからない。だから、目黒川沿いに住む人や、緑道沿いの町内会は放置されたゴミを自分たちの処理方法で片付けるのだ。先ほどの概念的逆で言えば、『ゴミを放置する人』は『所定の方法で私が処理すべきゴミを、誰かに処理させる』ということであり、その概念的逆が『誰かが処理すべきゴミを、私が処理する』となる。
 「そんなこと考えても、あちこちに空缶は投げ捨てられているし、毎日まいにちゴミは放置されているし、きりがないんじゃないか。それなのに、誰とも知れない奴が捨てたゴミを、どうして私が捨てなければならないのか」と思うだろう。確かに“そのあたり一帯を一気に一人できれいにする”のは無理だ。ただ、ゴミを放置する人のメンタリティが、「私が飲んだジュースのこの空缶一個くらい、それほど大したゴミじゃないな」と考え放置するのであれば、同様に「こんなにたくさん放置されている空缶の、このたった一つについて私が正しく処理する(家へ持ち帰る、コンビニで分別する、職場でなんとなく捨てる)ことは、それほど私の負担ではないな」と考え、毎日何人もの人が“ちょい拾い”を行えば、個々の負担を大きくせずに放置ゴミを軽減することは可能だ。


の目的は、ゴミ一つにしても、いったん物理的空間を共有してしまった範囲において、無関心な態度をどれだけ排除できるかということにある。