邪悪、背景化、現代的

は自分を、穏やかで平和を愛する性格だと思い込んでいましたが、しばしば浮かぶ自分の考えに穏やかでないものもあり、どちらかというと穏やかでない考えのほうがはるかに多くなっているので、これはむしろその“邪悪”の方がしっくり手頃で扱いやすいということではないかと気がつきました。もう37歳です。
 ただし、この穏やかでない邪悪さなんて以下の程度です。

  • 駅階段の下り指示側を昇ってくる人の顔前に、それとなく自分の手のひらをかざすとか(たいていの人は嫌がって避けます)
  • 駅のホームで携帯電話を操作している人からその携帯電話を奪い取り、反対側のホームや駅構外のバス通りめがけて、あるいはホームへ進入する電車の前へポイと投げ込むとか(これはまだ一度も実行したことがありません)
  • 駅前に無断で止めた自転車のスポークを毎日一本ずつニッパーでパチ切りしていくと、2週間もすれば乗れない自転車が大量生産されるとか(止める方が悪ですよね)
  • 路駐の自動車のバックミラーやフェンダーミラーを、片っ端から本来動かない方向へ曲げておくとか(その覚悟の上の路駐だと思います)
  • 前を歩いている人よりやや早いペースで、まったく同じリズムで歩くとか(ストーカーのような緊迫した雰囲気を醸し出します)
  • 同様に後ろの人よりちょっと遅いペースで、まったく同じリズムで歩くとか(追い越していてから遅く歩きます)
  • くわえタバコで自転車に乗っているロングコートの会社員とすれ違う瞬間、サっとその口にくわえたタバコを指先で奪い取り、すかさず襟足に用意しておいた練炭を放り込むとか(練炭の準備が大変かも知れません)
  • 赤ん坊を抱きながらくわえタバコしている父親には、健康増進法違反の現行犯としてBB弾3,000発をその親子に浴びせかけるとか(BB弾の色はもちろんオレンジです)


 ああ、こんな程度の邪悪さだったら、確かに永遠に弄び続けることができますね。ほんの1年前までは私もボカスカタバコ吸っていたはずなのに、この手のひらを変えたかのような底意地の悪さは、いかにも血液型A型的だなあと思います。アンアンにもそう書いてありました。

 それはそうと、私が見ていて不安を感じる他人の動作には、「信号待ち中に道路側へはみ出ている」というのがあります。たいていの交差点でしばしば見かける光景とはいえ、左折車が徐行しながら近づいてきてなお微動だにしない人に対して、私はいつも不安を感じます。内輪差なんて用語を使うまでもなく、道路にはみでた人と左折車とはお互い接触するほどに近づく場合があり、そして実際に接触したりすることもありますから、それを避けないってのは単純に男気の問題に過ぎなかったはずなのに、ひとむかし前は確かにそうだったのに、とある日、交差点からはみ出てに立つ女性を見かけました。彼女は、携帯電話を触っていたかぼんやりまわりを眺めていただけかは忘れましたが、ボディーに汚れの目立つ左折車がゆっくりと自分に接触し、その車が走り去ってしまってからしばらくして、はじめて自分の服が汚れていることに気が付いたらしく「なにこれ、なにこれ」と言いながらうろたえていた……と書いてて、そんな奴いるもんか!と言いたくなりましたが本当です。彼女にしてみれば、左折車は物理的にすら存在していなかったに違いなく、自分の服に、唐突に汚れが現れたかのような驚きようがなんとも、'60年代の四次元物SFの雰囲気を彷彿とさせました。


もそも危険を回避するためには、まず危険を察知する必要があり、五感は主にそのために機能します。私が思うに、視覚で前方を察知し聴覚で後方を察知する。これは眼鏡をかけずに道路を歩いて看板に激突したり、ヘッドフォンで大音量の音楽を聞きながら歩くと背後からのクラクションさえ聞こえないという危険な状況を避けるためです。さらに思うに、嗅覚というものは現在よりもやや未来を察知するための感覚ではないかと考えます。これは「鼻が利く」とか「なんかくさいな」などの、臭いに関する言い回しが、いま現在のことよりもちょっと先を察知した場合によく用いられるからです。いろんな状況を混濁したまま述べますと、つまり、鼻が利かない人は未来察知能力がより劣り、蓄膿症患者や花粉症患者の増加により、より未来の危険を察知する集合無意識的な力がどんどん衰えつつあるのではないでしょうか。日本全体が蓄膿化して危機臭が察知できなくなり、そんな状態でイラク自衛隊が派遣されてしまったことはたいへん遺憾であり、あ、なんかアンテナ3本立ってきた*1のでこの話はここまでとします。でも小泉首相が花粉症だったら。


 左折車に限らず、明らかに危険じゃないかと客観的判断が可能な状況にも関わらず、その危険を及ぼしうる対象(たとえば車や人など)に一瞥さえ与えない人がいます。おそらくこれは昨今話題になった儀礼的無関心てやつに近いかも知れない(ただし本来の意味どおりの内容だから、ネット方面へ敷衍されることはない)。私がよく実感するのはだが、その儀礼的とは言いにくい部分が、さきの例に挙げたような、当事者に含まれつつあえて対象から目を逸らすことにより、具体的に危険な状況を安全だとするメンタリティ部分だ。このメンタリティに関しては僕の推測だが、ほとんどの人が、目に映っても見えないばかりか、そもそもそちらをチラとも見ないのだ。これを僕は「背景化」と呼んでいる。

 人でも車でも、その人が背景化したものは、その人にとって存在しないものである。状況としては、電車に浮浪者が乗っているのを、一所懸命そちらを見ないようにすることで、あたかも浮浪者は電車などに乗らないと意識づけるようなメンタリティ。そんなメンタリティを背景化する意志と呼ぶ。

*1:文章の内容が支離滅裂になり、いわゆる“電波入っている”状態になりつつあること