フリーハンドで書くおっぱいと映画のネタばれの話

こで言うフリーハンドとは、下書き、推敲、構成をほとんど行わず、はてなダイアリー編集画面へ直に書くことを指しています。
 それでは今まで、はてなで書いたものはすべて下書き、推敲、構成を行っていたかというと、そう書いているんだからそうに決まっていて、7〜8行書くのに2週間くらいかかっています。だから、自分の文章感を崩すために、ときどきフリーハンディな作業を行うことにしています。ただしそれを公開する必要はないはずでした。


勤に慣れるにつれ、すれ違う人ごとの特定の時間帯というものが体感されます。いろんな人とすれ違うのは、こちらの通勤時間が不定(適当)だからですが、いわゆる“逆方向”通勤なので、通勤ラッシュというものとはほとんど無縁にすごしておりました。
 ある日駅から職場まで歩くと、おっぱい部分が縦方向にダッダーンダッダーン、違うわしゃんわしゃん? 違うなプロゥロゥンプロゥロゥン、これも違うかも。とにかく、その(不特定の)女性群が遥か前方から、朝だからわりと早足ですたすた歩くにつれて胸が揺れているのを見つけてしまいました。あわてて時計を見ると午前7時3分。ここで科学的思考を持つ男でしたら「では横から見たらいったいどのような流面を描いて揺れているのか」が気になるはずです。気にならないはずがありません。というわけで、かなりの時間じいーっと見つめてしまうことがあって、これはいけない、もうかれこれ40歳の声が聞こえはじめるのですが、1年ごとにその凝視時間が長くなっていくのを感じています。
 こんなぶろろん女性群が通勤ごとにわんさか現れて、胸を縦揺れに揺らせながら歩いてきたら一人々々に凝視する時間がかなりとられてしまうに違いなく、年度末には「ああ、今年も短い1年だったなあ」とつぶやくに決まっています。だって、このままでは1年の大半を凝視に費やしているのですから。でも、去年よりは胸が縦に揺れている女性が確実に増えていると思います。それも太っているのではなく、胸だけが前方にポーンと飛び出た、いわゆる、小池栄子タイプの乳と推測します。凝視したり推測したり、歩くだけの通勤時間には脳クロック数がレッドゾーンに。


画評をいろいろ読んでから、さて本物の映画に当たる場合があるが、偏見を植え付けられあまり面白く感じなかった場合と、読んだものに反して面白く感じた場合があり、結論から言えばどっちもどっちだ。映画なんぞ見たければ見るし、見たくなければ見ない。ただし、見る必要があるかないかを正確に判定するためにも、映画評(前評判文章)を読んでおく必要はある。映画のタイトルを見れば{見るべきか|見なくてよいか}がまずわかる。はっきりしなければ広告とか予告編を見れば{映画館で見るべきか|自宅で見ればよいか|見なくてよい}かがわかる。
 ここで注意するのは、予告編が面白すぎる映画だ。予告編といえば『マトリックス・リローデッド』だ。何の映画を見たのか本編は忘れたのに、その『マトリックス・リローデッド』の予告編が流れた途端、館内が水を打ったように静かになったことは記憶している。あんな経験は初めてだ。予告編の映像は確かにすごい緊張感があって、しかも初めて見る映像だった(公開前だから当たり前だ)。その映像表現が、館内を静かにさせたのだ。これはものすごい映画かも知れない! それがいざ本編を見ると……、でも映画館で7回見ましたが……。そういう予告編倒れ映画を、予告編段階で判断するのは不可能に近い。
 そこで映画評(前評判文章)の出番だ。webや映画雑誌をひもといて予備知識をたくさん仕入れることによって{見てはいけない}映画を判断することができ、大局的には時間の節約につながる。映画評(前評判文章)の中には、ネタばれといって、映画の根幹が文章で表現されたものを読むことにより、映画本編からのみ受けるべきインパクトを減衰させてしまうものがある。それはいったん読んでしまうと忘れることができないため、自分がその映画から得るはずだったすばらしい感動というものが消滅してしまうのだ。だから、正しくは「その映画でものすごく感動するかどうかは不定」なのだが、ネタばれを読んでしまった人はそうは思わず、「おれの感動を返せタコ」と叫ぶのである。ゆえに映画評などでネタばれの可能性があれば「ネタばれをたくさん含んでいますよ」と冒頭に書いているものがあるんですけど(急にくだけた口調)、何でみんな、たかがまだ映画を見ていない人をそんなに保護するのかね。どうして、まだその映画を見ていない(顔のない)人々が、すでに映画を見て、その映画についてしゃべろうとする人の言動を左右してしまうのかね。急に腹が立ってきたよ。
 そういう“気働き”がいつごろから一般化されたのかなど調べるつもりはないが、文字を反転させたりえへへと作り笑いしながら「ネタばれ含む」など書くのはもううんざりだ! というほど映画評を書いてないから、全く実害はなく、むしろ「ネタばれ含む」と書いている映画評を見るたびイライラさせられるほうが多い。また反転かよ。すでにその映画を見た人が書くのだから、その映画で表現されているものが含まれるのは当然じゃないか。でも決定的に違うのは、その文章で書かれたものが映像として再体験されるはずはなく、あくまで映画館での体験が主なのだから、他人の印象が文章化されているものとは方向がスタンスが全く違うはずじゃないか。
 つまり「映画評は参考にはなる、しかし僕が当の映画から受ける感動には一切影響しない」のだ。これだよ、さあどんどんネタばれしてくれ。でも「血が3リットル流れます」みたいなのは読みたくないな。