むしろどうでもよいこと二点

つ目。どうでもよいことと、これだけは誰かに伝えたいことのどちらを選ぶかというと、決まってどうでもよいことをピックアップ*1しておく。なぜか。誰かに伝えたいことは、記録の要不要を問わず、そのケースにおいて伝えるべき内容を容易に思い出すことができるためだ。だとすれば、これだけは伝えたいというものをメモする時間よりは、むしろ日常のどーでもよい時に思いつくどうでもよい事項が去来する時間のほうを有効活用したい。それが時間の無駄遣いだと思い捨て去るよりは、記録しておいたほうがまだましな気がするのだ。


つ目。自分が知覚している状態を明確に捉え直し表現するという技術を鍛えていく過程で、昔むかしに感じていた「己のナゾ」に鈍感になっていく。要するに、日常が平らに見えてくると毎日がつまらなくなるという感覚の度合いが大きくなる。これはいけない。まず、ふだん細かい疑問を感じなくなっていることがまずいと思う。今風な意味ではない、ヤバい自分。そういうものをちょっとづつ否定する(否定を肯定する)ために自分に課すべき次の課題が、どうでもよいことの採取であるべきだとふと思った。どうでもよいこととは、たとえば「半年定期券が4ヶ月を過ぎ、いまだキレイな状態で使用に耐えておる」とか、「朝5時半に目覚めるとまず奥さんを蹴り起こし朝飯を作らせ、その間ワシぁトイレで朝日新聞朝刊1面を読みよる」といった、個人的な、あるいは超個人的な、もしかすると汎個人的な、時には没個人的な物語の形をとるべきだと感じる。


は、そのような日常の物語が自分にとって重要な理由は何か。私が仕事をしている時や通勤しているとき、あるいは寝ている時に常に気になっているのは、なんと“時間”と“空間”と“重力”なのである。自分の体重が増えたことでさらに重力を身近に感じたり、30代を越えて年々体感時間が短くなったり、自分の物が増えて空間が圧迫されたりと、この3点セットがいつも気になる。さればこそ、webでは時間も空間も重力にも影響されないものを要求したいのである、というかそういう表現が果たして可能なんだろうかなーと夢見たりしている。カルヴィーノも言うように、軽いものを軽く表現するのはとっても大変なんだよな、実際。時間の消去で言うと、たとえばあちこちで使っているテキスト変換CGIサイトを使うと、自分の文章が時間とともに変化していくような感じを、時間方向へ圧縮して行っているように思う。文書を書いて、時間を置いてそれを眺め少し書き直し、また間を置く。そういった作業を短時間で圧縮してイメージすることができるのが、件のテキスト変換CGIサイトなのだ。後は空間をどうするか。


て、これはどうやら「これだけは誰かに伝えたい」文章になってしまった。
(参考:「読者を減らす工夫」 by ari)

*1:メモったり、自分宛にメールを送ったり